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1 政府の「国際組織犯罪等・国際テロ対策推進本部」は、2004年(平成16年)12月に行動計画を策定し、その中で弁護士らに対して依頼を受けた不動産の売買、資産の管理等一定の取引について、疑わしいと思われる取引を政府に通報する義務と、その通報の事実を依頼者に秘匿する義務とを課す内容の立法化を図ることを決定しました。
また、その後政府は、2005年(平成17年)11月には、その弁護士らの通報先を警察庁にすることを発表しました。つまり弁護士は依頼者について疑わしいと思われる取引に気づいたときは、その事実を依頼者には内緒にして警察庁に通報する義務を負うということなのです。政府はこの法案をまもなく作成し、2007年(平成19年)の通常国会に提出しようとしています。
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2 ところで、弁護士は、依頼者の人権と正当な法的利益を擁護することを職務の本質としています。この弁護士の職責を全うするために、弁護士法は弁護士に守秘義務を規定しています。この弁護士の守秘義務とは、依頼者との強い信頼関係の下に依頼者があらゆる事実を安心して弁護士に打ち明けられることを保障する制度です。弁護士の守秘義務こそ、弁護士の職務の自由と独立とのために、また他方で弁護士に依頼することができる市民の権利を保障するためにも、絶対に不可欠なものです。
そもそも弁護士に対する国民の信頼の核心は、弁護士が国家権力から独立して活動すること、特に警察など捜査機関と対峙して国民の自由と権利とを擁護する、というところにあるのです。従って、今回の弁護士に対する警察庁への通報義務の法制化は、弁護士の活動の基本を否定し、侵害しようとするものです。それはひいては、国民の自由と基本的人権を尊重したわが国の民主主義の歴史を逆行させるものです。
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3 今回の政府の決定は、弁護士に対して、疑わしいと思われるような取引であると感じたときは依頼者をこっそり警察に「密告」させるという制度を新設するものです。このような「依頼者を警察庁に密告する義務」が弁護士に課されることになれば、もはや市民の弁護士への全面的な信頼は根底から失われてしまいます。
もう弁護士に対して安心して秘密を打ち明けて、適切な法的助言を受けることはできません。その結果、弁護士制度の存在意義も失われ、民主的な司法制度の根幹も揺るがすことになります。
長崎県弁護士会は、このような依頼者を密告することを弁護士に課すという立法化に断固反対するものです。今後もこの問題についての危険性を広く市民に広報し、立法化を阻止することを表明し、ここに決議します。
会長 水上正博
決議案の提案理由
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1 OECD加盟国を中心とする31の国・地域及び2国際機関が参加する政府間機関であるFATF(金融活動作業部会)は、2003年(平成15年)6月20日、弁護士、公認会計士などの専門職に対して、顧客の本人確認義務及び記録の保存義務と、マネーロンダリングやテロ資金の移動として疑わしい不動産売買、資産管理等の多くの取引について、これを各国に設置される金融情報機関(FIU)に報告する義務を課すことを定め、これを
弁護士などの専門職をゲートキーパー(門番)として、違法な資金移動を監視し、規制しようとするものです。
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2 これを受けて政府の「国際組織犯罪等・国際テロ対策推進本部」は、2004年(平成16年)12月10日「テロの未然防止に関する行動計画」を策定し、その中で弁護士などの専門職に対してのFATF勧告の完全実施を決定しました。そして、2005年(平成17年)11月17日には、FATF勧告実施のための法律の整備に関する骨子を定めました。
これによると、
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(1) 法律の目的は、資金洗浄及びテロ資金対策とし、警察庁、法務省、金融庁、経済産業省、国土交通省、財務省、厚生労働省、農林水産省、及び、総務省の所管とし,法律案の作成は警察庁が行う
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(2) 本人確認法及び組織犯罪処罰法第5章を参考として法律案を作成すること。
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(3) 設置する金融情報機関は警察庁にする。
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(4) 警察庁は平成18年(2006年)中に法律案の作成を終え、これを平成19年(2007年)の通常国会に提出する。
とあります。
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3 しかし、「疑わしい取引」を警察庁へ報告するという制度は、弁護士・弁護士会の存立基盤である国家権力からの独立性を危うくし、弁護士・弁護士会に対する国民の信頼を損ねるものであり、わが国の弁護士制度の根幹をゆるがすものであります。
なぜなら、警察庁は、犯罪捜査を基本目的とする国家機関であり、弁護士・弁護士会とは制度的に刑事弁護などを通じて正面から対抗関係にあるからです。
弁護士が依頼者からの相談等を通じて得た情報を、それも単に「疑わしい」という主観的評価でそれを依頼者には内緒にして一方的に警察庁に通報するということは、弁護士が直接に捜査に協力するということであり、またこれにより弁護士が警察庁の統制下に置かれて監視されているかのような関係を作ることになります。従ってこの制度は弁護士への依頼者である一般市民にとっては、「弁護士による警察への密告制度」と認識されることは明らかであります。
その結果、市民は弁護士に依頼して真実を語って安心して弁護士に相談を受けることを躊躇することになり、そのため法律専門家から適切な法的助言を受けることができなくなり、違法行為をかえって招いてしまうという事態が発生しかねません。
ところで、わが長崎県弁護士会も、マネーロンダリング、テロ資金の移動を防止するため、世界各国が協力し、国内的法制を整備することの必要性を否定するものではありません。しかし問題はその規制の方法と内容です。弁護士などに幅広く報告させることにより、国民や企業一般に対しても幅広く過剰に規制をかけようとすることは行き過ぎであります。
弁護士に依頼者を密告させる制度によって達せられる利益に比べて、これによって失われる利益、即ち、依頼者である国民全体が弁護士に対する信頼を失うこと、それにより弁護士制度ひいては民主的司法制度の根幹を揺るがす弊害、リスクの方が格段に大きいというべきであります。
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4 諸外国での動きについて、特にアメリカの対応が注目されます。
アメリカ法曹協会(ABA)は、ゲートキーパー規制に反対の姿勢を崩しておらず、政府からも具体的立法化の提案の動きはこれまでにありません。
カナダでは、すべての州でゲートキーパー制度の弁護士への適用について違憲とする判断が出され、裁判所の決定により執行が停止されています。
EUの諸国においても、既に国内法制度化が実施された国でも、多くの国で弁護士が警察などではなく弁護士会に届出る制度がとられているものの届出件数は極めて少ないことから、現実には立法の効果はないと言われています。イギリスでは、ソリシター(法律事務を行う事務弁護士)に報告義務懈怠に5年以下の拘禁刑を科す法が規定されていることから、処罰を恐れて些細なことまでも報告する傾向となり年間1万数千件の報告がなされ、市民の弁護士に対する信頼を揺るがす事態となっています。
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5 両また日本弁護士連合会は、2005年(平成17年)12月16日の理事会において、ゲートキーパー立法阻止のための運動方針を決議し、これまで市民、国会議員、政党、マスコミにこの立法化の問題点、危険性を訴え続けてきています。
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6 わが長崎県弁護士会は、2006年(平成18年)2月13日に、この弁護士に依頼者を密告させる制度の立法に反対する会長声明を発表しましたが、政府の立法化に向けた動きは続いています。
そこで、2006年(平成18年度)の定期総会を開催するにあたり、この弁護士に依頼者を密告させる制度の立法阻止に向けての運動を更に幅広く強固に押し進めるため、本決議を行います。